歴史


高利の金融を営業として行う「高利貸」。江戸時代に隆盛を極め、日本における消費者金融のルーツのひとつともいえるこの業態は、さらに時代をさかのぼり、鎌倉時代の借上(かしあげ)、室町時代の土倉(どそう)、酒屋などを元祖とするといわれています。

今日的な意味での消費者金融業は1960年代に登場することになりますが、ここでは、この業態の誕生から現在までの歴史を年代別に振り返ってみることにしましょう。



消費者金融の歴史・変遷・まとめ

1950年代

当時のスタンダードは「質屋」

金融機関による個人を対象とする融資は、1929年(昭和4年)の日本昼夜銀行による小口融資が最初といわれています。

しかし、太平洋戦争後は、資金は復興を急務とする産業へ回され、個人への直接融資は戦後約10年を経るまで行われませんでした。

1950年代くらいまで、一般庶民にとってお金を借りる手段としてスタンダードだったのは「質屋」でした。「モノ」を担保にお金を借りるこの方法は庶民金融と呼ばれ、日常社会に浸透していました。

やがて経済復興により国民の所得が増え、モノが余る時代になっていきます。相対的にモノの価値が下がったことでビジネスモデルが成り立たなくなり、多くの質屋は廃業していくことになりました。

消費者金融の登場

質屋が衰退していく中で、1960年頃、東京、神戸で消費者金融が登場しました。 当時は「勤め人信用貸し」や「団地金融」などと呼ばれていました。

現在の消費者金融にもつながる、無担保・無保証で融資する形態が誕生したのです。

これが、質屋の「モノ」を担保にお金を貸す形態から、「人の信用」を担保にお金を貸す形態への大きな転換点でした。



1960年代

大量消費社会への時代背景

1960年は、日本の戦後復興が終わって池田内閣が所得倍増計画を掲げ、本格的な高度経済成長に突入した年です。

時代を象徴的する出来事として、富士銀行と日本交通公社による日本ダイナースクラブの設立、丸井でそれまでの割賦や月賦に代わり“クレジット”という呼称が使われはじめたことなどが挙げられます。

翌61年には、三和銀行と日本信販が日本クレジットビューローを設立し、JCBカードの発行を開始。日本ダイナースクラブもほぼ同時期にカード事業をスタートさせ、これらが日本で最初の本格的なクレジットカードの登場となりました。

このような大量生産・大量販売・大量消費社会の出現を背景に、人々の旺盛な経済活動の補完手段として、ローン・クレジット、そして団地金融がヒットする下地が整っていったともいえます。

現在大手の業者が創業・急成長

それまでの銀行の個人ローンは、申込手続が煩雑で、時間が掛かりすぎるため、個人が手軽に融資を受けられないという難点がありました。

そこへ、「即時/小口/無担保・無保証」の団地金融が生まれ、行列ができる程の人気が集まったのです。

現在大手といわれている消費者金融業者も、この頃に相次いで創業しています。

後にプロミスと経営統合した三洋信販(当時:山洋商事)は1959年に北九州で創業。

大阪では1960年にアコム(当時:丸糸呉服店)、1962年にプロミス、京都では1967年にアイフル(当時:松原産業)が誕生しています。東京では1966年に武富士が創業。 消費者金融業者は、サラリーマンの利用者を中心に急速に拡大・成長していきました。

消費者金融協会の発足

業界の急速な成長に伴い、協会の設立も行われます。1969年には業界の健全な発展を目的として、大阪の業者11社が集まってJCFA(日本消費者金融協会)が設立されました。

JCFAの設立目的は、以下の通りです。

  • 社会的な義務と権利の確立
  • 業務システムの合理化
  • 労務対策

現在は専業大手や中堅業者など110数社で組織されています。



1970年代

日本初の信用情報機関の設立

市場の急速な拡大により、この時期、過度な借入をして返済困難に陥ってしまう利用者が増えてきました。

そのため、各業者が互いに利用者の信用情報を共有して、貸倒に陥るリスクのある利用者を事前に把握できるシステムを構築する必要性が出てきました。

そこで1972年、JCFA(日本消費者金融協会)を基盤として日本で初めての信用情報機関である(株)レンダースエクスチェンジが大阪に発足しました。

JCFAではこの他にも、業界初の白書となる「サラリーローン白書」(消費者金融白書)を1976年に発行するなど、業界の健全な発展を意図した取り組みを行っています。

オイルショックで借りる人が急増

1970年代には、オイルショックでお金を借りる人が急増しました。

当時の消費者金融は、主にサラリーマンの利用者が多かったことから、一般に「サラ金」と呼ばれるようになります。

この頃の業者の金利は平均で年91.25%~102.2%と超高金利であり、暴力や脅迫による取り立ても大きな社会問題となっていました。

現在のように厳しく規制する法律もなかったため、こうした状況は批判的に捉えられ、いつしか「サラ金地獄」という言葉も定着するようになります。

この時期、「消費者金融」という業態には、「サラ金」「街金」というようなブラックでネガティブなイメージが先行するようになってしまいました。

相次ぐ批判的な報道

市場の拡大と共に多くの貸金業者が参入し、競争は激しくなっていく中で、一部の悪質な業者の「高金利・過剰貸付・過酷な取立て」という、いわゆる3Kが社会問題になりはじめました。

各メディアにおいても、次第に消費者金融に批判的な報道が多くなってきました。

特に1975年から開始された毎日新聞「サラ金をつく」キャンペーン、1977年頃から続出したマスコミ各社による「サラ金批判」により、消費者金融のイメージが大きく損なわれてしまったのです。

また借金苦による自殺などが社会問題化したことで、貸金業規制法制定への流れが作られていくことになりました。



1980年代

大蔵省による通達

業界周辺のこうした社会問題は、国会でも取り上げられるようになり、1978年には「サラリーマン金融向けの融資」の適正化を求める大蔵省銀行局長通達が出されました。 この通達を受けた銀行や生命保険会社などの金融機関は、消費者金融業界への融資を抑制する措置をとりはじめます。 これによって、資金調達のパイプを切られた消費者金融業界では、多くの会社が経営危機に陥り、廃業する業者も目立つようになりました。

本格的な法規制から「冬の時代」へ

1983年には、「貸金業の規制等に関する法律」(貸金業規制法)と「改正出資法」が成立・施行されました。

この改正により、貸付上限金利は109.5%から73.0%まで下げられました。以降、経過措置により、87年には54.75%、91年には40.004%まで引き下げられていきます。

この83年の「貸金業二法」の施行をきっかけに、消費者金融業界は「冬の時代」を迎えることになります。

中小の貸金業者が次々と倒産・廃業に追い込まれ、貸金業登録数は83年には約23万社だったものが、翌年の84年には3万3千社にまで激減してしまったのです。

「冬の時代」からの再生

いわゆる「冬の時代」は、1984年から85年をピークに86年頃まで続きました。

消費者金融に対するこの時期の逆風は、業界全体には大きなダメージを与えましたが、特に大手各社にとっては、経営の合理化や強固な基盤を確立する機会となったのも事実です。

80年代で、日本の経済環境は比較的良好であり、新規顧客のニーズが十分にあったことも大きく、88年頃には消費者金融会社の業績は回復軌道に乗りはじめます。

「冬の時代」に行った経営の合理化は、消費者金融業の1990年代以降の飛躍的な発展の礎となったのです。



1990年代

自動契約機の登場

自動契約機の登場は、新規顧客を劇的に拡大させ、消費者金融業界のビジネスモデルを画期的に変革しました。

業界初の自動契約機は、1993年にアコムが新宿と福岡に設置した「むじんくん」です。

当初は試験的な導入でしたが、その匿名性の高さから顧客に受け入れられ、95年頃から大手各社が積極的に設置を進めるようになりました。

TVコマーシャル解禁

自動契約機の登場と同時期に、消費者金融のテレビCMが解禁されました。

各社は工夫を凝らし、「サラ金」「街金」といった従来のネガティブなイメージを払拭すべく、身近でクリーンなイメージを定着させることに力を注ぎました。

印象的なところでは、現代の若者を模した宇宙人が気軽にキャッシングするCM、かわいい仔犬に洋服を買うためにキャッシングするCM、美しい女性タレントを起用したさわやかなCMなどがありました。

自動契約機にも「むじんくん」「お自動さん」といったキャッチーな名前を付け、サラ金時代とは打って変わって“気軽な”“楽しむための”キャッシングをアピールするイメージ戦略を展開したのです。

その結果、それまで消費者金融に縁のなかった女性や若年層の利用者が急増していくことになります。

大手各社の株式公開

1990年代、バブル経済の崩壊により利用者が増加したこと、自動契約機の登場やTVコマーシャルの解禁によりイメージアップが図られたことなどにより、消費者金融各社は順調に業績を伸ばしていきました。

そして大手各社はついに株式公開を実現します。93年にプロミス、三洋信販、アコムが上場。96年には武富士、97年にはアイフルも上場を果たします。

また準大手クラスの各社も相次いで株式公開。さらには武富士、アコム、プロミスが日本経済団体連合会(経団連)に加盟するなど、消費者金融業界は社会的な地位を確立していきます。

商工ローン問題

1998年、いわゆる「日本版金融ビッグバン」政策が、橋本政権下でスタートしました。

この中で、不良債権処理が促され、同時に熾烈な競争にさらされることとなった銀行による、中小企業への融資の引き締め(=「貸し渋り」)が起こりはじめました。

このような状況を背景に、中小零細企業に対して、担保をとり連帯保証人もつけるという貸借契約で融資を行う「商工ローン」会社が業績を上げてきました。

1999年には、日栄、商工ファンドという商工ローン大手2社による悪質な脅迫まがいの取り立て行為が発覚し、刑事事件にまで発展しました。

一連の事件の影響は、商工ローン業者の倫理問題に留まらず、貸金業者全体に社会的圧力が向けられることになりました。



2000年代

上限金利の引き下げと業界再編の動き

1999年の商工ローン問題を受けて、貸金業規制法と出資法の改正論議が急速に進み、99年12月に改正法が可決・成立、翌2000年6月に施行という急展開を見せます。

特に、出資法の定める貸付上限金利が年40.004%から29.2%に引き下げられたことは、消費者金融業界に大きな影響を与えました。

上限金利の引き下げは、中小消費者金融業のマーケットを失わせる結果となり、顧客基盤を失った業者の中には廃業したり、大手の傘下に入る業者が少なからず見られ、業界の再編をうながす一因となりました。

また、メガバンクとの資本・業務提携も進み、2004年にアコムが三菱東京フィナンシャルグループと、SMBCコンシューマーファイナンス(プロミス)が三井住友フィナンシャルグループとそれぞれ資本・業務提携を発表しました。

信用情報の共有

消費者金融業者が加入する全国信用情報センター連合会(全情連/JIC)は、2000年前後から、クレジットカード会社が加入する(株)シー・アイ・シー(CIC)、銀行・信用金庫・信用組合・農協などの金融機関が加入する全国銀行個人信用情報センター(KSC)との間で、ブラック情報の交流システム「CRIN(クリン)」の運用を開始しました。

このシステムの導入により、与信の厳格化・過剰貸付の防止が図られ、大手6社などでは契約者の属性が向上し経営が健全化する結果となりました。

しかし一方で、個人信用情報を利用した借入れの勧誘など悪用の事例もあったほか、与信の厳格化により利用者が「ヤミ金」に流れてしまうという副作用を指摘する声も上がりました。

グレーゾーン金利の問題

1954年に施行された「利息制限法」は、適用される利息の上限を制限しています。この制限は借り入れ金額によって変動するもので、元本が10万円未満は20%、10万円~100万円は18%、100万円~1000万円は15%となっています。

ところが、この「利息制限法」には罰則が設けられていないという特徴がありました。罰則がないため、貸金業者は利息制限法の上限よりも高い貸出利率を設定できる状態になっていました。

上で見たように、2000年6月施行の改正出資法で上限金利は29.2%まで引き下げられましたが、なお利息制限法の上限金利と出資法の上限金利には「幅」があり、この「幅」は一般的に「グレーゾーン金利」と呼ばれていました。

利息制限法の上限を超える約定利息は民事的には無効ですが、出資法の上限を越えないかぎり法的な罰則は発生しません。貸金業者は、貸付金利をこのグレーゾーン内に設定することで、長年に渡り高い利息を得ることができていたのです。

ところが2006年に、グレーゾーン金利をめぐる判決が裁判所によって相次いで示されます。これらは、利息制限法の上限を超えて支払った金額を認める「みなし弁済」規定について否定する内容で、事実上「グレーゾーン金利を認めない」という判決でした。

そうなると、これまで利用者が必要な返済だと思って支払っていた超過金利分の利息は、必要以上に支払いすぎていたお金だったという結論になります。

近年、弁護士事務所や司法書士法人などのCMでよく耳にする「過払い金」は、このグレーゾーン金利によって支払いすぎた利息のことを指すのです。

なお、2010年の改正貸金業法の完全施行により、上限金利はどちらも20%と統一されました。グレーゾーンは消滅し、消費者金融業者の収入を支えてきた高金利も廃止せざるを得なくなったのです。



個人信用情報機関の歴史・変遷

消費者金融事業の審査にあたっては、過剰な貸付を防止し、多重債務者の発生を減少させるためにも、申込者の他社での利用状況を事前に把握する必要があります。

しかし自社の与信システムがどれほど優れていたとしても、ローン申込者の他社での利用状況をたちどころに調査するのは不可能に近いことです。

そこで、実際の審査においては、自社が加盟する外部の信用情報機関を頼ることになります。

いまでは、このような存在を抜きにしてローン・ビジネスは成り立たないとさえいわれる信用情報機関ですが、どのような変遷をたどって現在に至っているのか、消費者金融業界を軸にまとめてみました。

主な信用情報機関(情報センター)の変遷

  • 1972年、日本初の個人信用情報機関(情報センター)である(株)レンダースエクスチェンジが大阪で発足。
  • 1976年、全国各地の10の情報センターを統括する目的で、全国信用情報交換所連絡協議会が発足。その後、各地に情報センターが設立され、33ヶ所を数えるまでになる。
  • 1979年、外資系消費者金融会社、流通系クレジット会社などが中心となって、個人信用情報機関(株)セントラル・コミュニケーション・ビューロー(CCB)を設立。
  • 1980年、全国信用情報交換所連絡協議会が、全国信用情報センター連合会(全情連)に名称変更。
  • 1987年、全情連が、銀行および銀行関連会社が加盟する全国銀行協会(全銀協・KSC)、信販会社およびクレジットカード発行会社などが加盟する(株)シー・アイ・シーとの間で、延滞等の情報の相互交流システム「CRIN(クリン)」の運用を開始。
  • 1999年、全情連に加盟できないクレジットカード会社等が全情連に登録されている情報を限定的に参照できるようにした個人信用情報機関(株)テラネット(初代)が発足。
  • 2000年、(株)セントラル・コミュニケーション・ビューローが(株)シーシービーに商号を変更。
  • 2005年、全情連が金融庁より個人情報保護法に基づく認定個人情報保護団体の認定を受ける。
  • 2007年、(株)日本情報センター、(株)アイネット、(株)テラネット(初代)の3社が合併し、新たに(株)テラネット(2代)が発足。
  • 2009年4月、(株)テラネット(2代)が全情連加盟の33情報センターから事業承継を受け、(株)日本信用情報機構(JIC)に社名変更。
  • 2009年8月、(株)日本信用情報機構が(株)シーシービーを吸収合併、略称を「JICC」に変更。
  • 2010年、(株)日本信用情報機構が内閣総理大臣より貸金業法に基づく指定信用情報機関として指名される。


消費者金融テレビCMの歴史

1990年代以前においては、積極的な出稿が行われていなかった消費者金融のテレビCMですが、90年代以後は大手を中心にメディアへの露出が多くなっていきます。

しかしその歴史は、業界やその周辺で発生した社会問題や批判的風潮による規制と、業界の成長・発展による規制緩和の果てしない「繰り返し」と見ることもできます。

ここでは、そうした消費者金融とテレビCMの歴史を、印象的な事例やエピソードを取り上げつつ概観していきましょう。



1960~70年代

「サラ金問題」からCM排除へ

消費者金融のテレビCMは、1970年前後から始まります。1969年にはプロミスが同社初のCM、1975年にはアコムが同社初のCMをそれぞれ打ちました。

一方、この頃から業界周辺で、強引な貸付や取り立て、借金苦による自殺などが社会問題化していきます。「サラ金問題」「サラ金地獄」という言葉が定着するとともに、1976年頃からはマスコミ各社による「サラ金批判」の風潮が劇的に高まりました。

こうした世の中の流れを受けて、1977年、日本民間放送連盟(民放連)は「サラ金CM」排除の申し合わせを行います。

これにより、民放各社は、消費者金融(当時の呼び方としては「サラリーマン金融」)のCMを一律に放送しないという立場をとるようになりました。



1980年代

経営体質の改善により徐々に緩和

1970年代末期の大蔵省銀行局長通達、1983年の「貸金業規正法と出資法」の改正・施行など、行政・立法による規制が進んだことにより、消費者金融業界では中小の業者を中心に大規模な淘汰が起こりました。

業界の「冬の時代」と呼ばれるこの時期、消費者金融業者の数は約4分の1まで大激減したといわれています。

このような厳しい状況の中、悪質な業者が業界から徹底的に排除されていく一方で、生き残った消費者金融業者は経営の合理化や強固な基盤の樹立、そして社会的な信頼回復に積極的に努めるようになります。

特に大手各社において経営体質の改善が進展したこともあって、民放各社は徐々に規制を緩和するようになり、深夜時間帯を中心に再び消費者金融のテレビCMが放送されるようになっていきました。



1990年代

自動契約機の印象的なCMが話題に

1990年代に入ると、自動契約機の登場により消費者金融の市場が飛躍的に拡大します。大手各社が次々と株式公開を果たし、社会的な認知度が飛躍的に高まりました。

業界の隆盛とともに規制緩和も進み、印象的なテレビCMが登場するようになります。

この時期は、業界の“ウリ”であった自動契約機のメリットを訴求する内容のものが多く、プロミスの「いらっしゃいましーん」、アコムの「むじんくん」、アイフルの「お自動さん」、武富士の「¥(エン)むすび」、レイクの「ひとりででき太」など、コミカルで親しみやすいネーミングも特徴的でした。

CMのつくりに関しても、70年代以来の「サラ金」「街金」といったネガティブなイメージの払拭を意図したと思われるものが主流でした。実際世間一般の話題を集めたことで、こうしたCMの数々は、業界の表向きのイメージ改善に大きく貢献するものとなりました。

実際、アコムのCM「むじんくん『宇宙 限定モデル』篇」は、全日本シーエム放送連盟(ACC)主催のCMフェスティバルでACC賞を受賞するなど、業界の枠を超えて注目を集めました。



2000年代

過剰なイメージ戦略と再びの社会問題化

2000年代に入ると、消費者金融CMは、在京キー局5社すべてで全日時間帯での放送が解禁となります。

この時期の大手各社は、若い女性タレント、かわいい動物などを起用したコミカルでキャッチーなCMを大量に投下することで、「消費者金融の敷居の低さ」や「気軽にお金を借りられること」などをイメージ的に訴求するようになっていきます。

タレント犬のチワワ「くぅ~ちゃん」が登場するCMが話題になり、またほとんど無名だった若い女性タレントが消費者金融のCMへの出演をきっかけに大ブレイクするなどの社会現象が起こりました。

このようにCMによる巧みなイメージ戦略が成功する一方、いたずらに「お金を借りる」という行為の敷居を下げてしまった結果、安易な借入れをうながし、それまで消費者金融に無縁だった様々な世代の人々が、高い金利を気にせず簡単にお金を借りるような風潮が巻き起こってしまいました。

結果、十分な返済能力のない若年層までもが消費者金融を利用するようになり、借りすぎによるトラブルや多重債務者の急増、また借金苦による自殺者が相次ぎ、再び業界は深刻な社会的批判の渦中に置かれることとなります。

民放各社・民放連による再びの規制

こうした社会情勢を受け、日本弁護士連合会などは消費者金融テレビCMの中止を求める意見書を提出。民放各社は、児童・青少年への悪影響を考慮して、CM放送の時間の限定、放送本数の制限などの規制を実施しました。

また、消費者金融というサービスの本来の意図を伝えていないもの、「契約内容の確認」「収入と支出のバランス」「無理のない返済計画」といった警告表現のないものは規定不適合とされ、放送不可能となっていきます。

こうした規制によって、業界各社のCMの際立った差別化は難しくなり、長らく消費者金融業界の主流となっていたコミカルでキャッチーなCMは軒並み姿を消していきました。

代わりに「(後々の返済のことを考えて)事前に無理なく計画を立てましょう」といった無難なメッセージを比喩的に(遠回しに)表現したものなど、業界間で似通った内容のCMが増えていきます。

また民放連では、「気軽にお金を借りられるというイメージが先行している」として、「消費者に過大な負担を課する金利水準でない事業者であること」「安易な借り入れを助長するCM表現でないこと」などを、放送基準に盛り込んでいく動きが進んでいきました。

ちなみに、現在使用されている「日本民間放送連盟 放送基準」(2014年改正・施行)においても、以下のような明文規定が設けられています。

17章 金融・不動産の広告
(137) 金融業の広告で、業者の実態・サービス内容が視聴者の利益に反するものは取り扱わない。
(138) 個人向け無担保ローンのCMは、安易な借り入れを助長する表現であってはならない。特に、青少年への影響を十分考慮しなければならない。

銀行との提携が進展、新たな広告展開の動き

2008年頃から、消費者金融各社が大手銀行と業務提携したり、資本関係を結んで子会社となったりする傾向が、多く見られるようになりました。

銀行側としては、カードローンやキャッシングの事業を行うためのノウハウやインフラを、提携した消費者金融業者から取り込むことで、個人向けの金融サービス(リテール金融)を強化できるというメリットがあります。

消費者金融側としては、預金という安定した財務基盤をもつ銀行と関係を結ぶことで、安定した経営環境を確保することにもつながるため、こうした動きが進展していきました。

加えて、一般的に社会的な信用度の高い金融機関である銀行と提携することで、ここまで度々紹介してきたような、草創期から消費者金融業についてまわるダーティーでネガティブなイメージを和らげたいという狙いがあるものと考えられます。

そのため、現在放送されている消費者金融のテレビCMでは、大手銀行と提携していることを明確に示すことで、自社の「健全さ」「安定感」「信頼感」を視聴者に訴求するような内容のものが主流になってきています。

また、起用されるタレントの知名度や格に関しても、かつての消費者金融業界には見られなかったような人選が積極的に行われるようになりつつあります。

このような点は、消費者金融のテレビCMの新しい動きとして注目に値するのではないでしょうか。



消費者金融における「与信業務」の歴史・変遷

貸金業者が適切な貸付業務を行っていくためには、借り手の返済能力や返済意欲を正確に判定し、貸付条件を設定する「与信判断」が極めて重要な意味をもちます。

そのため消費者金融の草創期から、貸し手である業者はそれぞれに与信判断のノウハウを蓄積し、磨き上げてきました。

市場が次第に拡大し、社会環境や情報インフラが大きく転換していく中で、業界の与信業務がどのように変化し、向上していったのか、ここではその変遷を見ていきましょう。

草創期の与信判断

草創期の消費者金融業者は、自分たちの商圏内に固定客をもっているのが一般的でした。借り手の来店時の顔つきや雰囲気、集金で訪問した自宅の玄関の様子といったことから生活状況や人となりを察知し、与信判断の参考にするなどしていました。

また当時は、大手企業の社員なら雇用や収入の安定が保証されていたため、その属性だけでも申込者の信用度は抜群と判断されていました。

しかし高度経済成長期を迎え、利用ニーズ・業者数がともに増大すると、業者の“勘”だけに頼るのではなく、より客観的な事実に基づく与信判断が必要になってきました。

こうして顧客の信用情報の交換が始まるわけですが、当初は地域の貸金業者が集まり、返済が滞っている利用者の名前を交換しあうといった“内輪の”情報交換会にすぎませんでした。

個人信用情報機関の設立

しかし社会の都市化が急速に進行するにつれて人口の流動性も高まり、より広域的な情報交換を行う必要性が出てきました。

こうした中、1970年半ばから、消費者金融業界における個人信用情報機関が各地に続々と誕生していきます。

1972年に業界初の個人信用情報機関である株式会社レンダースエクスチェンジが大阪に誕生。75年には株式会社ジャパンデータバンクが東京に設立されます。続けて、各地に同じような信用情報機関が生まれていきました。

そして1976年には、全国信用情報センター連合会(全情連)の前身である全国信用情報交換所連絡協議会が発足します。

黎明期の信用情報機関

現在では、個人信用情報の照会はオンラインで簡便に行うことができますが、初期の個人信用情報機関の業務運営はアナログで、完全な人海戦術に頼っていました。

顧客の信用情報は、図書館の目録カードのような紙片に手書きされていて、生年月日別に50音順でキャビネットにファイルされています。

会員業者から電話で情報照会の依頼が入ると、職員がキャビネットから該当のカードを探し出し、電話で内容を読み上げるのです。

貸付や返済の事実もその都度電話で報告され、それを職員がカードに書き加えてファイルに戻すという仕組みになっていました。

大規模な機関になると、常時100~200名の職員が交替制で勤務にあたり、室内は電話の呼出音や対応に走り回る職員の声と熱気で大変な喧騒状態にあったということです。

個人情報保護の取り組み

当初は、個人信用情報の持ち方について統一のルールがなく、貸付や返済に関する事実以外に、「人相悪し」「支払い態度悪し」といった主観的な印象なども記入されていました。

このような好ましくない状況に対して、全国信用情報センター連合会(全情連)は、早い段階から情報の登録や保有の方法についての基本ルール導入に動きました。

それを象徴するものが、1981年に策定された「倫理綱領」です。この倫理綱領は、個人信用情報の取り扱いにおける自主規制基準というべきもので、プライバシー保護の意識が定着した現在にも通じるのはもちろん、むしろ完全に時代を先取りしたものでした。

「登録する内容は、個人の識別に必要な最小限の事実と契約内容や返済などの客観的な事実に限ること」など、当時としては先駆的な内容が明示されています。

全情連がこのような自主規制基準づくりに動いた背景には、消費者金融のあり方をめぐる世論や社会状況が日増しに厳しくなっていたことがあったと考えられます。

業界間の相互交流

日本の個人信用情報機関は、業態・業界ごとに発生・発展を遂げてきたという特徴をもっています。

しかし消費者信用市場の拡大に伴い、多重債務者の数が増えていくにつれて、与信業者が個人信用情報を横断的に見ることができないかぎり多重債務問題は解決しないという声が聞かれるようになりました。

こうした情勢から、後のCRIN(クリン)につながる、消費者金融会社が利用する全情連会員センター、信販やクレジットカード会社が利用するCIC、銀行等が利用するKSC、の3機関による情報の相互交流という考え方が生まれました。

1987年にスタートしたCRINでは、交流される情報を“異動情報”にかぎっています。異動情報とは、一般にブラック情報・事故情報と称される延滞や不払い等の情報のことです。

全ての情報の交流(ホワイト交流)が見送られた理由としては、登録情報の内容・精度・最新性などに、各機関で大きな差があったことが挙げられます。

信用情報機関の今後

個人信用情報機関は、現在では他に類を見ない巨大なデータベースと洗練された情報交換システムで、今や消費者金融業者の与信判断の業務に欠かせない存在となっています。

しかし、貸し手のための貸し手による情報機関であるからこそ、同時に、法令や顧客が求める以上のレベルで個人信用情報を扱わなければならないという責務があります。

近年は、社会環境や情報インフラの変容、そして何より大きな法律改正を経るなどして消費者金融業界そのものが大きく変化していく情勢にあります。

そうした流れの中で、個人信用情報機関は、指定信用情報機関という新たな公的な責務を担うにあたり、果たすべき役割は一層大きくなり、従来の「業界インフラ」から「社会インフラ」への脱皮が迫られているのではないかと考えられます。



出資法制定・改正と上限金利の変遷

消費者金融の業務を考える上で、切っても切り離せないのが「金利」の問題です。お金を貸して、その元本がしっかりと戻ってくるのはもちろん、それに付加される「利息」によって利益を上げるのが消費者金融という業態なので、その業務において「金利」が極めて重要な要素であることは言うまでもありません。

特に出資法の定める「上限金利」は、戦後間もない頃から現在に至るまでの数十年の消費者金融の歴史上、しばしば激しい議論の対象となってきたテーマでもあります。

ここでは、そんな出資法が成立した経緯と、その後の度々の改正による上限金利の変遷を追いかけてみましょう。

戦後の混乱期・朝鮮戦争を経て出資法制定へ

戦後の経済混乱期にあった1940年代後半、高利回りの利殖を謳い文句に人々から出資金を募り、そこから得た資金を中小企業に高利で貸し出す闇金融が横行していました。

また、1953年のスターリン死去、朝鮮戦争終結の後には、国内で「保全経済会事件」に代表される闇金融業者の倒産が相次ぎ、政界を巻き込んでの社会問題に発展しました。

こうした情勢を受けて政府は、詐欺まがいの利殖商法や闇金融業者を取り締まる目的で、1954年に出資法(出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律)を制定します。 出資法では、当時の質屋の実勢金利をもとに、年109.5%が上限金利と定められました。

業界の成長と出資法改正への流れ

その後、国民経済が戦後復興期から高度経済成長期へと進展していく過程で、消費者向けの金融サービスの主役は「対物信用」をベースとする質屋から、「対人信用」をベースとする消費者金融へと移行していきます。

当初、消費者金融は零細な事業者によって営まれていましたが、やがて法人形態の事業者も登場し、日本経済の発展とともに業界は急成長を遂げていきました。

めざましい進展の一方で、1970年代に入ると、一部の業者による過剰融資や取り立てが社会的に問題視されるようになります。

このような社会問題に対する批判的風潮の高まりを受けて、国会においても、出資法改正の流れが作られていくことになりました。

出資法改正と上限金利の引き下げ

いわゆる「サラ金問題」への批判を受けて、行政・立法での対応が進んでいきます。 1983年、出資法は改正され、上限金利はそれまでの年109.5%から年73%に引き下げられました。

以降、経過措置として、87年に年54.75%、91年に年40.004%まで引き下げられていくことになります。

この83年から91年までの上限金利の段階的な引き下げは、83年の出資法改正の際、大蔵省から提示された40.004%を上限金利とする案を土台に、国会での与野党間調整により決定されたものでした。

「商工ローン」問題でさらなる規制強化へ

1990年代の終わり頃には、いわゆる「商工ローン」問題が起こりました。 これは、銀行などによる中小企業に対する「貸し渋り」が進む中、急速に成長した日栄や商工ファンドといった「商工ローン」業者が、根保証制度の乱用や悪質な取り立て行為を行っていたことが明るみに出た、という問題でした。

脅迫まがいの取り立てがマスコミに大きく取り上げられ、刑事事件にまで発展したこの社会問題を受けて、再び出資法の改正機運が高まり、2000年に改正法が施行されます。

この改正により、出資法の定める上限金利は年40.004%から年29.2%へと一気に規制強化されることとなりました。

「グレーゾーン金利」の撤廃

2006年には、いわゆる「グレーゾーン金利」をめぐって、裁判所による重大な判決が相次いで出されました。 これらの判決は、消費者金融業者が「グレーゾーン金利」により高い利息を得られる根拠となっていた、旧貸金業規制法の「みなし弁済」といわれる規定に関するものでした。

「みなし弁済」とは、「利息制限法超過利息であっても、債務者が任意に利息として支払った場合は有効な利息の弁済とみなす」というもの。

裁判では、弁済の任意性を認めるか否かという論点において、最高裁が「任意性はない」と判断しました。つまり、利息は「強制的に」払わされている、という見解です。

この判決・見解により、業者が利息制限法の上限を超えて高い利息を得られていた根拠が完全に否定され、「みなし弁済制度の廃止」と「グレーゾーン金利の撤廃」に向けての法整備が進められていくことになりました。

そして2010年施行の改正出資法で、上限金利は年29.2%から年20%に引き下げられ、いわゆる「グレーゾーン金利」は消滅しました。

上限金利の引き下げに関する議論

法令による上限金利の引き下げについては、賛成派と反対派による根強い意見の対立があります。

引き下げ反対派からは、経済学的な視点から「国家が金利の上限を決めることには問題がある」とするものや、「上限金利の引き下げは中小消費者金融業者の市場からの撤退・縮小を促す」「貸し手を失った利用者は闇金融に追い込まれていく」といった意見が出されました。

一方、引き下げ賛成派は、反対派が主張する経済学的な観点からの意見に対して「論拠が抽象的で現実妥当性がどれだけあるのか疑わしい」などの反論を行っています。

また同様に賛成派は、引き下げ反対派の意見の問題点として、「返済能力を軽視した過剰融資、多重債務による返済のための再借入れが圧倒的に多い実態が考慮されていない」との指摘を行いました。

つまり、そもそも上限金利の引き下げによって「借りられなくなる人」は、新たな貸し出しを受けて借金を雪だるま式に増やすより、債務整理等に取り組むのが望ましい段階にあるとも考えられる、と反駁しているのです。

さらに闇金融の増加の問題については、「闇金融は出資法の上限金利が現在より高い頃にもはびこったことがあり、闇金融と金利の問題とは切り離して考えるべきである」との意見も出されています。

引き下げ反対派が論拠とする闇金融利用者数の増減、中小企業の廃業・倒産件数などは、上限金利の引き下げという政策以外にも、リーマンショック等による経済情勢全体の変化の影響なども考慮しなければならず、因果関係を証明するためには慎重な議論が求められると考えられます。



外資参入の歴史

戦後、大きく発展を遂げてきた消費者金融業界の歴史は、日本が戦後復興期を経て、高度経済成長・国際化への歩みをはじめた時代と、時を同じくしています。

そのため、世界に類を見ない経済発展を遂げた日本の市場は、外国の企業や資本家の目に非常に魅力的なものとして映っていたことでしょう。

同様のことは、消費者金融市場についてもいえます。海外資本による日本の消費者金融市場への動きは、業界に様々な影響を与えたものと考えられます。

そこでここでは、当初は「黒船来航」とも呼ばれ、大きな脅威として認識されていた外資の参入はどのような経過をたどっていったのか、概観していきます。

70年代後半、外資が続々と参入

1975年以降、日本の消費者金融市場への外資企業による参入が活発化しました。

77年に、アブコ・ファイナンス・サービスがまず日本へ進出しました。同社は当時、米国消費者金融業界で第3位の地位にあり、その進出は日本国内では衝撃的な出来事でした。

78年にはシティコープ・クレジット、ハウスホールド・ファイナンス、ベネフィシャル・ファイナンスなど米国系を中心に6社以上が一気に参入しました。

79年にはアイク、サン・アメリカ・ファイナンスなどが、そして翌80年には米国の巨大商業銀行であるバンク・オブ・アメリカ系のビー・エー・ファイナンスが日本市場に参入しました。

そして80年までに、11社が日本での業務をスタートさせました。

外資の参入が進んだ背景

当初、こうした外資系消費者金融会社の日本市場への参入は、日本の消費者金融業界から大きな脅威と見られていました。

その理由のひとつは、各社とも世界的な大企業グループの一員であったこと。そしてもうひとつの懸念は、貸出金利の圧倒的な低さにあったといわれています。

出資法の上限金利が年109.5%だった当時、国内大手各社が年96%ほどの金利で営業していたのに対して、外資系企業は年48%という低金利を掲げていたのです。

一方で、当時は悪質業者による過剰貸付・過酷な取り立て行為が社会問題化し、マスコミによる「サラ金批判」が先鋭化しつつあった時期でした。

そのため、マスコミを中心に、低い貸出金利を提示して国内に参入してきた外資系企業に対する好意的な見方が広がっていました。

このような状況は、新規参入する外資にとって追い風になっていたと考えられます。

急速な参入と撤退

マスコミ各社による「サラ金批判」が渦巻き、外資による市場参入を歓迎する論調が目立っていた当時の情勢は、日本の消費者金融市場への参入をめざす外資にとって好機と思われました。

実際、このような追い風を受けて、進出当初は外資企業の店舗に顧客が列をなして押し寄せたといわれています。また、外資系企業の担当者の中には、ある種の「手応え」をつかんだ者も多かったそうです。

しかし、1981年にはハウスホールドが日本市場から撤退。それを皮切りに、外資系の消費者金融会社は次々と撤退していきます。

最後まで残ったのはアブコとアソシエイツ(アイク)の2社でしたが、86年にアイクがアブコを買収したことで、この年までにアイク1社を除く全ての外資が撤退したことになります。

このように、ほんの10年ほどの間に、外資の急速な参入と撤退が行われた背景には、一体何があったのでしょうか。

撤退の要因と背景

この時期、外資が日本で目立った成果をあげられなかった理由のひとつとしては、1980年頃から、日本国内において個人信用情報に関するデータベースの整備が急速に進んだことが挙げられます。

国内の消費者金融業者は、1972年頃から貸倒れの未然防止と過剰融資の防止を目的に地域ごとの個人信用情報機関を設立していましたが、80年頃までにはこれらの機関が全国的なネットワークを構築し、全国信用情報センター連合会(全情連)が発足するに至ります。

しかし当時、外資各社には全情連加盟の情報センターへの加入資格が認められていませんでした。全情連加盟の情報機関の門戸がなかなか開かれないことは、外資にとって厳しい現実となっていました。

そこで外資各社は、対抗策として、一部の国内信販会社と共同で、1979年にセントラル・コミュニケーション・ビューロー(その後の株式会社シーシービー)を設立します。

ただ、全情連加盟の情報センターのデータベースを使って効率的に与信する国内の消費者金融業者との差は歴然でした。

このような事情から貸倒れ率が上昇し収益を圧迫しはじめたことが、外資系消費者金融会社が急激に撤退していくことになった最大の要因であると考えられます。

唯一の外資系企業「アイク」の戦略

そんな中、アイクが外資として唯一、国内市場への参入を成功させることができた理由は、日本の消費者金融業界への寄与と市場の理解にあったと考えられます。

外資各社が日本市場から撤退をはじめた1981年、アイクは国内の消費者金融会社の業界団体である日本消費者金融協会(JCFA)に加盟します。そして、日本の会社と足並みをそろえながら、多重債務者問題や個人信用情報の問題解決に尽力しました。

とりわけ後にアイクの日本法人社長となる日系米国人のウィルフレッド・Y・ホリエ氏は、日本人社員への大幅な権限移譲や日本的雇用の尊重などで現地化を貫き、長期的な視点に立った日本市場の開拓に努めました。

こうして、アイク1社のみが日本市場での土着化を果たしていったわけですが、一方で、1998年にGEキャピタルがレイクの営業権の譲渡を受け、新レイクとして営業を開始するまで、外資系企業による日本国内市場への新たな参入は1件も見られませんでした。



消費者金融業者への主な行政処分

消費者金融業者にとって基本的なルールとなる法律に、貸金業法があります。これは、消費者金融など貸金業者の業務等について定めたものです。

貸金業法は、その第21条で、貸金業者の取り立てについて「人を威迫し、又は次に掲げる言動その他の人の私生活若しくは業務の平穏を害するような言動をしてはならない」と規定し、悪質な取り立て行為を具体例を挙げながら禁止しています。

また、第41条の4では、貸金業者が上記第21条(取立行為の規則)の規定に違反する行為を行った場合には、行政が「一年以内の期間を定めてその業務の全部若しくは一部の停止を命じ」ることができると定めています。

つまり、悪質な取り立て行為は同法で厳しく禁止されており、それらに違反するような取り立てを行った消費者金融業者は、業務停止や登録取り消しといった行政処分、あるいは、懲役・罰金などの刑事罰を受けることになるのです。

ここでは、近年、金融庁や財務局などの行政機関から、消費者金融業者が業務停止命令、業務改善命令などの重い処分を受けた事例を紹介します。

2006年4月

ダイエーグループの消費者金融業者・アルファオーエムシーに対し、財務省関東財務局が、債権回収を行う社内管理センターの業務を25日間停止する業務停止命令を出した。

同社管理センターの社員3人が3日間にわたり合計6回、債務者の妻に電話をかけ、「返済しないと担保の自宅を競売で不動産業者に買い取らせる」などと迫ったという。

借金の一括返済を迫るなどの違法行為が繰り返されたため、同財務局は貸金業規制法に違反する過剰な取り立て行為に当たると判断した。

2006年4月

消費者金融業者のアイフルが、全国各地の店舗において融資や取り立てをめぐる違法行為を繰り返していたとして、財務省近畿財務局がアイフル全店に対して3~25日間の営業停止命令を出した。

違法行為として指摘された具体的な事案内容は、以下の通り。
諫早店で、貸金業務取扱主任者が、顧客から委任を受けていないにもかかわらず、この顧客の名義を勝手に使って委任状を作成、これを行使して当該顧客の公的証明書類を不正に取得した。

五稜郭店で、家庭裁判所から補助開始の審判を受けた債務者に対する貸付けの契約について、債務者の補助人から当該契約を取り消す旨の意思表示書面を受領したにもかかわらず、支店長等が債務者に対し債権の取立てを行った。

カウンセリングセンター九州で、正当な理由なく債務者の勤務先へ架電を行い、さらに債務者から勤務先への架電を止めるよう改めて申し出を受けたにもかかわらず、執拗に勤務先へ架電を行い、債務者を困惑させた。

西日本管理センターで、債務者の母親の居住する実家へ連続して督促書面を発送するとともに、数回にわたり架電し、母親に弁済をなさしめるよう不安をあおり、母親を困惑させた。

新居浜店で、債務者に対する債権の取立ての交渉にあたり、第三者から弁済資金を調達するよう執拗に求めるとともに、妻や母親を交渉に参加させるよう執拗に迫り、債務者を困惑させた。

これらの事案は、いずれも貸金業規制法の規定に違反するものだった。

2006年7月

ローンスターグループの消費者金融業者・アエルに対して、財務省関東財務局は3~26日間の全店業務停止命令を出した。

渋谷駅前支店の担当者が債務者宅に電話し、家族に強い口調で「取り立てに行く」と通告して恐怖心を抱かせた。

仙台南町支店と琴電瓦町支店、福島支店では、法律上は支払い義務のない家族と返済について和解したのに、交渉の経緯を帳簿に記入していなかった。

関東財務局は社内の内部管理態勢が不十分として全店業務停止という厳しい処分を決めた。

2006年10月

消費者金融大手で「ほのぼのレイク」を運営するGEコンシューマー・ファイナンスに対して、金融庁と財務省関東財務局が5日間の一部業務停止命令を出した。

業務停止の対象となったのは、東京と大阪の電話サービスセンター。 同社は、携帯電話などで連絡がつかなかった借り手の勤務先に電話をして返済を求めた。その際、借り手から「勤務先に電話をしないでほしい」と要請されたにもかかわらず、社内の連絡ミスで再び職場に電話をした。

貸金業規制法では、暴力的な取り立てをはじめ、借り手の承諾を得ないで勤務先に電話をしたり、職場へ回収に出向く行為を禁止している。

金融庁と関東財務局は、これらの行為が貸金業規制法の規定する違法回収に当たると判断した。

2007年4月

消費者金融業者・三和ファイナンスに対して、金融庁は、違法な取り立てなどを行ったとして4月23日から最長で6月27日までとなる長期の全店舗業務停止命令を出した。

同社千葉支店では、債権の取り立てに当たり、本人が拒否しているにもかかわらず、親族から資金を調達してでも返済するよう迫ったほか、本社債権課は取り立て電話をかけた際、子どもの学校名を執拗に聞き出そうとするなど家族を困惑させた。

札幌大通り支店では、担当者が借り手の自宅を訪問した際、「裁判になるぞ」といった威迫的な言動で不安をあおった。

金融庁は、会社側がこれら法令違反を助長する社内規定を策定していたことなどを問題視、重い処分に踏み切った。

2008年5月

消費者金融大手の武富士に対して、金融庁は、債権取り立て時の交渉内容を正確に記録しないなど貸金業規制法違反があったとして、業務改善命令を出した。

同社は債権を取り立てる際に社内規定に違反して集金を行ったほか、債務者の親族に債務内容を開示して返済させるなどした。

これに加え債権を取り立てる際、債務者が自宅のドアを蹴られたと思うほど強くノックしたり、玄関前で「貸した金返せよ」といった歌詞の入った携帯電話の音楽を流して、債務者の親族を困惑させた。

金融庁は、武富士に対し経営陣と従業員の法令順守徹底や、店舗での厳正な事務処理を命じた。

2008年5月

消費者金融業者・三和ファイナンスに対し、金融庁と関東財務局は、貸金業法に基づき業務改善命令と5日間の一部業務停止命令を出した。

関東財務局は、同社大宮西口支店で支店長自らが、親族名義で借り入れをした債務者に「詐欺である、警察ざたにする」などと発言したり、債務者へ30分間に23回電話をかけ、債務者を困惑させるなど、現場の監督が十分に行われていなかった、と判断した。

2008年7月

貸金業者が2008年4月21日付けの夕刊紙やスポーツ紙に掲載した広告について、金融庁などが調査を実施。不適切な内容とされた148業者に対して行政対応がなされた。

スポーツ紙や夕刊紙では、三行広告の形で、業歴の浅い中小業者が広告を掲載しているケースが多く、それらは、かねてから誇大広告であることや、多重債務への引き金になっているとの指摘があった。

調査の結果、約8割の業者が表示項目の欠落や誇大表現などの不適正な広告を行っていると判断されたため、該当業者に対しての行政指導が行われた。





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更新日:2017/05/30

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